ポン酢形式

主に解析数論周辺/言語などを書くブログです。PCからの閲覧を推奨します。

京都: 暮らし・文法・記号

末廣大神: 狛蛙

実家暮らしとは非文法的です。入室にあたり扉はノックされません。

友達との二人暮らしにおける文法は, しかし, より保守的 (conservative) です。

 

— でも星先生は「日常のやりとりでは文法的であることのほうが少ない」ってつぶやかれてたじゃない、

Grammar: for whom and for what?

じゃあ、日々の文法的な環境下において「非文」が許されるのは いつ だろうね ?

— まあ、たとえば「こいつ9時半からセミナーあるっつってたのにまだ寝てる」ってときには叩き起こすべきだとは思う

伏見: 狛猫 ?


婚姻という institution にも文法という制約があるように、たとえば Twitter の字数制限にも concision という名前がある (3:17:34-):

youtu.be

Human nature を仮定した anarchism が法の欠如を意味しないのと同じで、

www.youtube.com

文は長ったらしく書けばいいってわけじゃないし、

Until I was twenty-one, I wished to write more or less in the style of John Stuart Mill. I liked the structure of his sentences and his manner of developing a subject. I had, however, already a different ideal, derived, I suppose, from mathematics. I wished to say everything in the smallest number of words in which it could be said clearly. [...]

 

There are some simple maxims -- not perhaps quite so simple as those which my brother in-law Logan Pearsall Smith offered me -- which I think might be commanded to writers of expository prose. First: never use a long word if a short word will do.

 

Bertrand Russell, How I write (1951)
http://www.pereestupinya.com/pdf/Russell,_Bertrand-How_I_Write.pdf

逆にある種の制約の設定は創造性を助けさえする、っていうのはまあ数学でも同じ (50:01-):

youtu.be

俳句をはじめとした詩でもそう:

https://twitter.com/polynitro_/status/1432344798887702533

https://note.com/annnagatsuki/n/naabe1a0d2cfa


ウクライナ語圏の友人が教えてくれたけどね、彼の おばあ様 によれば、USSR [ソ連] の国民は当時「母国が全て・他国は滅びるもの」だと思っていたそう: ここで、日本に今日生きている自分たちがこれを聞いて おかしい と思うのも「地理的/時間的な距離」があるから

このことについては Ricœur の現象学的解釈学 (herméneutique phénoménologique) で導入された考え方がわかりやすい:

  • difference  \longrightarrow differentiate  \longrightarrow differentiation (差異 → 区別をつける → 微分)

と似た要領で、

  • distance  \longrightarrow distanciate  \longrightarrow distanciation (距離 → 距離をとる → 距離確保)

という analogie proportionnelle により「距離をとること」という言葉を定める。

fr.wikisource.org

ある対象への密着・熱中は大事 -- でも、共同体 [community] の内側からは気づけないこともある。ところで、おそらく伝統的に distanciation とは epokhē の一種:

tsuputon7.hatenablog.com

-- そういうわけで: 前回3年前に京都で会ったとき以来数学からは '距離をとった' 自分が気づく、個人的に魅かれる数学者・哲学者の共通点というのは、ある興味の対象を

「一環」としてとらえる

ことができるという学術的な視野の広さ

小林秀雄: 岡さんは数学を長年やっていらして、こういうふうにいけば安心という目途というものがありますか。

岡潔: 家康がもうこれで安心と思ったような、ああいう安心はありませんね。だからそういう心配もすべきものではないと思っているだけです。

小林: 一つ解決すると、その解決がさらに次の疑問を生む。

 岡: 次の問題をよんで、それが無解決につながるということは幾らでもあります。ただ私が始めました頃は、三四十年かかっていろいろな中心的な問題がでてきていた。それを解決しなければ進めないという時期にあった。その頃始めたわけです。それがだんだん解決できていったということです。もう殆ど解決できています。今度は次の新しい問題がわかってこなければ行き詰まるわけで、そういう困難が待ちうけています。いまそこにいるわけです。

小林: しかし後戻りというのはないわけでしょう。

 岡: 後戻りはしません。

小林: 絶対にしない?

 岡: ええ。本当に行き詰まったら、数学というものがなくなるでしょうね。そういう危険性がないということは言えないわけです。だから数学のなかだけでは安心できないわけで、やはり人類の文化の一つとして数学というものがあるという自覚があれば、心配はないわけです。人類の向上に対して方向が合っていると思うようにやればいいので、そこまで行かなければ安心できない。数学至上主義というものはあり得ません。

 

小林秀雄岡潔, 人間の建設 (1965), pp.117-118

まず哲学の分野でいえば、きむさんによる「方法論/観点としての構造主義*1

wjk-9625.hatenablog.com

数学では、たけのこくんの「'多重版' の特別な場合としての  S, \Gamma, \zeta 特殊値」

www.nicovideo.jp

www.nicovideo.jp

IUTT 認識論

そして、Q.rad-heart の semiotics [記号学] によれば

数学とは「記号操作の制限」*2

-- だから、彼によればプログラミングもたとえば広義の数学。

3年前のとき一緒に四条から歩いて帰ってきたときには数学基礎論まで迷い込んでいたというありさま、しかし彼のいう記号操作にまつわる一連の話は他の人と共有したことがほぼないそうです。-- 構造言語学側の傍から観ていると、たとえば MIT で情報理論から借りてたころの Jakobson だとか、近隣の cybernetics とか読んでみたらおもしろいんじゃないかと思うわけ (hierarchy of reducibility 的な 不等式による評価 には一切興味ないけどね !)

百万遍: 吉岡書店 (2000円)


もう17時40分、行かなきゃ !

帰ってしまうのは寂しい、でもとにかく君が元気そうでよかった。

— こちらこそ: 会えるまで心配してたよ、詩とはうつ病だからね。

また夏の講義ですぐ京都来るかもしれないし。

じゃあね !

Damage to Broca's area (the third frontal gyrus on the left side) produces a characteristic aphasia. Articulation becomes slurred and elliptic; connectives and word endings drop away. Damage to the Wernicke area, also in the left hemisphere but outside and to the rear of Broca's area, causes a totally different aphasia. Speech can remain very quick and grammatical, but it lacks content. The patient substitutes meaningless words and phrases for those he would normally articulate. Incorrect sounds slip into otherwise correct words. The fascinating corollary to the aphasia described by Carl Wernicke, some ten years after Broca, is its suggestive proximity to the generation of neologisms and metaphor. In many known cases the results of verbal or phonemic paraphasia (ungoverned substitution) are almost inspired. There is a sense in which a great poet or punster is a human being able to induce and select from a Wernicke aphasia.

 

— George Steiner, After Babel: Aspects of Language and Translation (1975), p.282

*1:方法論/観点: as opposed to 信念 [as against 実存主義]

*2:制限: restriction [as of a function]

あら、ご機嫌よう。

あなた、蝶はお好き ?

今日はもう春の日和、ここ数日はなんと毎日のお花摘みで忙しいこと。— もし綺麗なのを一匹でも捕まえたければ、網なんか持って追いかけていてはだめよ。まずは庭のお手入れから始めなければいけませんからね。

ほら、Voltaire も言ったでしょ:

Il faut cultiver notre jardin.

— Voltaire, Candide, ou L’optimisme (1759)

大切なこと、それは毎日のお世話をきちんとこなすこと。
街の方で何が起こってるかなんて、生活を愛すことには関係ないの。

おわかりかしら ?


でも Victor Frankenstein の先生は確かにおっしゃったわね、
「あなたの本性の許す範囲より外へ出向こうとしてはいけない」、と。

I see by your eagerness, and the wonder and hope which your eyes express, my friend, that you expect to be informed of the secret with which I am acquainted; that cannot be: listen patiently until the end of my story, and you will easily perceive why I am reserved upon that subject. I will not lead you on, unguarded and ardent as I then was, to your destruction and infallible misery. Learn from me, if not by my precepts, at least by my example, how dangerous is the acquirement of knowledge, and how much happier that man is who believes his native town to be the world, than he who aspires to become greater than his nature will allow.

 

— Mary Shelley, Frankenstein; or, The Modern Prometheus (1818), Ch. IV.

小さな村での暮らしもいいわ。でも、お年頃の子が憧れるのは忙しい都会での毎日でしょう ?

Un bar aux Folies Bergère par Édouard Manet

youtu.be


昼下がりのお茶会でふと耳にしたことだけれど、Nietzsche という哲学者も園芸がお好きだったみたいね。

Yet traces of [Nietzsche's] horticultural enthusiasm survived in his philosophy, for in certain passages, he proposed that we should look at our difficulties like gardeners. At their roots, plants can be odd and unpleasant, but a person with knowledge and faith in their potential will lead them to bear beautiful flowers and fruit – just as, in life, at root level, there may be difficult emotions and situations which can nevertheless result, through careful cultivation, in the greatest achievements and joys.

 

[...] To cut out every negative root would simultaneously mean choking off positive elements that might arise from it further up the stem of the plant. We should not feel embarrassed by our difficulties, only by our failure to grow anything beautiful from them.

 

— Alain de Botton, The Consolations of Philosophy (2001), Ch. VI: Consolation for Difficulties

「植物とはその根こそ土だらけだが、美しい花とは土まみれの根なしに咲くことはできないのだ。」

全く彼の言う通りだわ。
毎日のお世話を大切に過ごせば、成果はまるで魔法のように浮かび上がってくるものね。

— お庭のお手入れって、そういうものなの。


そら、光

Des ailes, un autre appareil respiratoire, et qui nous permissent de traverser l’immensité, ne nous serviraient à rien, car, si nous allions dans Mars et dans Vénus en gardant les mêmes sens, ils revêtiraient du même aspect que les choses de la Terre tout ce que nous pourrions voir. Le seul véritable voyage, le seul bain de Jouvence, ce ne serait pas d’aller vers de nouveaux paysages, mais d’avoir d’autres yeux, de voir l’univers avec les yeux d’un autre, de cent autres, de voir les cent univers que chacun d’eux voit, que chacun d’eux est ; et cela, nous le pouvons avec un [grand artiste] ; avec leurs pareils, nous volons vraiment d’étoiles en étoiles.

 

— Marcel Proust, La Prisonnière (1923)

https://fr.wikisource.org/wiki/Page:Proust_-_La_Prisonni%C3%A8re,_tome_2.djvu/71

日々の生活のささやかな幸せ、それはあなたの目をとおして見る 光と空 そのもの。しばらく会えなくてもさみしくない ; あなたの目では世界が照ってみえるから。

あはは 君も僕も光: そう、私たちには光しかないの

卯の月: 誕生を歓迎し、祝福すること

youtu.be

「痩せるためにはまず太ってないといけない」とはよく中学時代の友人と、(同級の [predominantly] 女子-中学生を指し) たびたび繰り返した truism*1 ですが、こうした論理的にはごくあたりまえのようにみえる主張でも、驚くべき非自明な結果を導くことは十分ありそうです: --


今年はもう桜も散る季節。-- 空を背景にあおぐ、散りたての葉桜を のぞむ のも一興;しかし花吹雪に見出すなつかしさというのも、まさに今年も咲いたという紛れもない事実を暗に帰結している (!) わけです (この種の逆説的な論理展開・強調構文には、一般に古典修辞学で litotes [緩叙法] という名前がついています: そういうわけで、植物にもこういう雄弁な一面 [eloquence] がある*2 )。

f:id:zeta_aniki:20220411221733j:plain
庭園に春をのぞむ猫.

そして -- その通り。命を絶つためには命が与えられている [have been given] という前提があって成り立つのです: Keats よりも朗読されるべき詩人・Newton よりも優れた科学者というのは生命の息吹を与えられてはいない -- が、今年の桜を見届けたひとには確かに与えられており、したがって生命の [一時的な] 終わりを迎える特権がある。なんと幸せな名誉 !

-- Richard Dawkins は言います:

f:id:zeta_aniki:20220411223520p:plain
Richard Dawkins, Unweaving the Rainbow, as quoted by Steven Pinker in Sense of Style.


思い返してみれば、

距離をとること  ~ \Longleftrightarrow ~ 密に接すること

という distanciation [疎隔化] の考え方は現象学的解釈学でも大事なテーマの一つだったわけです。

-- Ricœur は確かに言いました:

Conseils de sagesse

J'aimerais conclure par quelques conseils animés par l'esprit de bienveillance.

 

Premier Conseil : chercher à être au clair avec ses propres désirs et ses propres craintes concernant la mort ; se dire la vérité concernant ses propres désirs de mort tournes vers les proches comme envers soi-même, avant de prétendre trancher sur la vérité à dire aux mourants.

 

Deuxième conseil : penser à la responsabilité qu'on a des autres, qui sont confiés à notre soin et à notre garde, et pas seulement à la responsabilité qu'on a à l'égard de soi-même, et donner à cette responsabilité la forme collégiale d'une équipe de conseil et de soin incluant malade, équipe soignante, famille et proches, conseiller et médiateur de parole (psy., aumônier, ami(e)).

 

Dernier Conseil : veiller à égayer la pensée de la mort par accueil de la naissance et une salutation adressée à tout ce qui grandit et croît autour de nous.

 

Paul Ricœur, Critique et Conviction, 2001. -- https://www.kyotoprize.org/wp-content/uploads/2019/07/2000_C.pdf

f:id:zeta_aniki:20220411231309j:plain
Accueillir la naissance & saluer tout ce qui grandit et croît autour de nous : 誕生を歓迎し、発育するすべての者を祝福すること.

-- Good bye.

*1:truism [noun]: 自明の理; わかりきっていること; 「それはそう」

*2:ところで「雄弁」ってそれこそ園芸学の用語に見えてこない ?

神保町: ノマド的な

f:id:zeta_aniki:20220206224642j:plain
北沢書店 & 澤口書店 w/ @wj_philsci_tok & 崇文荘書店 & 古書ワルツ.

ありがとうございました ! -- 木曜日の個人的な収穫を一言で振り返るとすれば、それは、「数学ってすごい」という主張 [assertion] に対した「哲学もすごい」ということ [antithesis] の再認識です: そして、相対的に [in turn]、自分の思考過程が汲む数学的な作法の流れ、特に「明示公式」を通した理解について。

数学の amteur コミュニティに背景をもつ自分にとって、哲学者の生態系を知るのにはたいへん興味があります: たとえば読書を例にとってみても、

  • 数学者にとっては1日に3, 4ページも読めればとてつもなく生産的な日になる一方で、
  • 哲学者にとっては1時間に40-50ページ読み進めるのがだいたいの平均 (!)

だというのでおもしろいです。(そういうわけで、数学に偏り気味の僕にとっては、哲学書を読むにしてもつい数学書のようなテンポで読んでしまうわけです。)

この対比とは理系-文系 dualism を後押しするものではなく、 誰かと話すたび毎回きづく distanciation の relevance を指摘するため: -- 実際、お互いのツイートの perusal*1 & 神保町での会話を通してみえてきた共通点といえば、

「構造」という概念を原点とする、学際的な理解

を目指すことにあったわけです。

wjk-9625.hatenablog.com


帰り際、気分が湧いてきたときに自分がよくする質問: actionable advice は何かありませんか (= 今日帰ったらまず取り組むといいことはありますか)、と訊いたところ、特別なことをする必要はなくて、日ごろ考えてることを紙に書き出してみる、みたいな基本を大事にしましょうというありがたいお言葉をいただきました。

seisuian.com

初心に立ち返り、ここから見据えるのは、半年あとの EPQ & Master's degree: お互いに毎日切磋する日々 --

Good bye.

*1:繰り返しますが、僕はつぶやきの趣旨をノートを書きながら読み進める程度には毎日読み込んでいます。

鼎談: 横断科目「歴史に学ぶ数学」


6:54 -- 「歴史に学ぶ数学」(≠ ``数学史") という題目の背景:

私が思うに、数学史を授業として扱うことの意義は、科学の限界を知ることも重要だとみとめることにある: --

  • 科学、あるいは数学という、一見反論の余地もないものにおいても、歴史的には、たくさんの紆余曲折を経てきている
  • 科学を、普遍的な、一種の「神格化されたもの」として考えているのだとすると、それに対する反論 (アンチテーゼ) というのはたくさん歴史の中にある
  • 歴史を見てみると、これは歴史的出来事として人間が作ってきたものだという側面がたくさんある

-- そういった発見というのは、歴史を学ばないとなかなかない気がします。

特に、ユークリッド幾何学から非ユークリッド幾何学へ、というストーリーというのは、よくこれを体現していると思います。すなわち、数学というのは全く議論の余地はない、絶対の正しさを持っているものだ -- いえいえ、まったくそんなことはないんです: たとえば、19世紀の初頭になると、ガウスという数学者が、非ユークリッド幾何学というのは理解していたけれども、とてもそれを発表するの気にはなれなかった: どうしてかというと、おそらく大論争を引き起こすから。実際、たいへん論争がおこったり、その歴史の受容の過程は長かったわけで。

-- そういった歴史性をもって、科学や数学をみると、今までとは全然 違った次元 がみえるようになる: そういったところに歴史を学ぶことの意義があるのではないか -- 特に、科学で活躍しようと思っている人には、そういうことをわかってほしいと思うわけです。

Betrand Russell の自伝に、非ユークリッド幾何学について書く場面があります:

All the advances in non-Euclidean geometry had been made in ignorance of the previous literature, and even because of that ignorance.

-- Bertrand Russell, Autobiography, p.133

10:33 -- 限界を認め、受け入れること:

さらに言えば、その限界を知ったうえで、科学というのはとても可能性のある学問なのである、数学というのは広い普遍性を持ったものなのである (!) -- [ただ単に限界、もうだめだ、ということだけではなくて、] そういった限界を知ったうえで、しかし、まだ我々にはわかっていないものがたくさんあるんだ、というところも大事だと思います。

zeta-aniki.hatenablog.com

12:52 -- Myopia への antidote として学ぶ歴史:

「正しさ」ってやっぱりすごく難しいですよね: 数学ですら正しさに関する論争というのはたくさん起こっているわけで -- 数学者というのは、正しさに盲目になりやすい: 特に、職業的な数学者であればあるほど。他の正しさがあるということが見えにくくなっているというところはあります。それは、歴史を見るということによって防げると思うわけです: -- いろんな文明があって、いろんな数学の伝統があって、今は -- たまたまかもしれませんが -- 西洋的な数学というものに席巻されているというような状況になっている: 数学というのは一個だという、強力なプラトニズム が今は蔓延っているわけですが、それだって、もしかすると今世紀後半ぐらいになれば違った状況になっているかもしれないわけです。

数学とは一つであるということ -- これは Nicolas Bourbaki の 原論文 を強くおもわせます:

f:id:zeta_aniki:20211223025436p:plain
« La mathématique » ?


感想, observation

-- いやしかし、日本の最先端をゆく領域で活躍していらっしゃるような数学者の、「歴史から学ぶ数学」という観点から与える

Platonism への批判・relativism の賞賛

というのが、いかに striking で目覚ましいことでしょう: ここしばらくは西洋語圏でばかり数学 [の哲学] に触れていた自分にとって、このような 東洋的な気づき には酔いも醒まされる一方です。

www.youtube.com

一方で、ここで加藤先生の展開される議論にみられるような、

哲学的な反省から数学的な帰結を導く

という手法はとても興味深いものだと思います: これは、たとえば Hilary Putnam (Harvard 大学名誉教授) との対談で Bryan Magee の指摘する*1ような、

大半の科学者というのは哲学に一切の興味を示さない -- が、真に偉大な科学者だけは例外である (= 彼らは哲学を決して軽視しない)」

という警句を思い出させます。

大半の数学者でさえ同様、すこし哲学らしい話をすれば途端に殉教へ追い込む勢い、いますぐにでもその異教信仰を訟えようとでもいうようですので恐れいります。-- ``数学者というのは、正しさに盲目になりやすい" といったところでしょうか。

-- しかし、大切なのは「その限界を認め、受け入れること」: 数学的普遍論争の最中でも、数学を志す精神の極限というのは、歴史から学ぶ数学の意義を見出すことにあるのではないでしょうか。

youtu.be

-- Good-bye.

ピクニック: 新宿御苑

今日の ピクニックの核心 は、ある挑戦に立ち向かうとき、それを認め、受け入れるということ [acceptance] *1 にあったと思う:

  • 数学の表記体系 [signifiant] は恣意的 [arbitraire] らしい -- じゃあ、どうする?
  • Parole ('言語活動') なしに経験だけで生きてられはしないかもしれない -- でも、大事なのは、ここから。

-- おもえば、3年前*2 の自分はかなりの signifié主義者*3 だったようにみえる:

  • 楽譜のないピアノ
  • formalism のない数学

当時の自分が「記号のない数学」みたいな oxymoron を耳にしたとして、そのことをどのように考えていたかは、もう今の自分にもアクセスがないのでわからない -- けど、大事なのはそれを受け入れること:

リクールが「他者としての自己」(Soi-même comme un autre) という題を打ち立てたのは、だいたいこういう動機にあるものだということで理解している

https://www.kyotoprize.org/wp-content/uploads/2019/07/2000_C.pdf

f:id:zeta_aniki:20211111002035j:plain
「表徴の解釈」という長い道だけが開かれている.

Good-bye.

*1:まるでソスュールにカウンセリング受けてるみたいですね

*2:注目すべきなのは G.Ł. が当時すでにこの parallel に気づいていたということ

*3:https://zeta-aniki.hatenablog.com/entry/2021/06/22/214157

神保町: 洋書まつり (2021)

神保町で毎秋行われる 洋書まつり というイベントにいってきました。

blog.livedoor.jp

f:id:zeta_aniki:20211030204438j:plain
毎年おなじみのポスター (らしい) (昭和から続いてそう)

会場の雰囲気はこんな感じ:

1日目

ちょうど学校が mid-term のお休みだったので、1日目の金曜日も朝から参加することができました。

毎年、じつは丸善の本を楽しみにしていて、なぜかといえば「Penguin Books をはじめとした 英語圏の新書 のうち、すでに読まれていて安く売られているもの」は神保町でも見つからないからです。去年は、たとえば Steven Pinker の Enlightenment Now とか Sense of Style があって、当然買ったわけですけど、今年は既読の新書が去年に比べると少なかった気がしました。

-- そういうわけで、1日目の最初に選んだのはこれ:

f:id:zeta_aniki:20211030201533j:plain

Jonathan Culler の Structuralist Poetics, このまえ豊洲 TeamLab の帰りに買って読んでひたすらすごかった: 特に、Roland BarthesEssais Critiques からの抜粋:

I have been engaged in a series of structural analysis which aims at defining a number of 'non-linguistic languages'

-- Rolan Barthes, Essai Critiques, p.155

そういうわけで、

「言語 (le langage) とは構造そのもの」という壮大な仮説

を探求する試みをだいたい構造主義とよぶのがいいでしょう (as a first approximation, ラカンの指す 無意識 とか例にとっても確かに一貫した考え方であるようには見えます: [しかし、問題はここでブルバキがどう関わってくるかということです])。

さて、今年は去年まで本の整理のために設置されていた 机と椅子 が無い代わりに「木の板」が床に置いてあって *1、そこで最終的な本の選択・値段の計算等を済ませます。

f:id:zeta_aniki:20211030203201p:plain
1日目, 取捨選択'd

  • Merlau-Ponty の Le visible et l'invisible が 300円, バグってませんか (水中書店)

fr.wikipedia.org

2日目

2日目は、Twitter で知り合ったある北欧好きの方と一緒の訪問でした。

f:id:zeta_aniki:20211030222537j:plain
2日目: このうち2冊は drop

  • Russell の autobiography! -- 去年の今頃はこれが欲しくてたまらなかった (なお、200円) (古書ワルツ)

さて、交差点向かいの 南洋堂 に寄って北欧建築を立ち読み、大通りの書店街をふらついたあと Milonga Nueva という喫茶店で北欧への憧れを話し合いました。

f:id:zeta_aniki:20211030222936j:plain
カフェオレ & サーミ語の基礎.

店内で流れていたタンゴの雰囲気しか思い出せませんが、たとえば

に通じる「内側からの感覚」みたいなテーマに最近興味がある*2というようなことを bounce off-る等。


今日いちばん嬉しかったのは、なにより、これ!

f:id:zeta_aniki:20211030224123j:plain
サーミ調のイラスト!

少数民族の文化に美をおぼえる繊細さ (sensibilité)!-- 北欧が好きになることの よろこび [delight] というのは、こういった、深い人間味に触れることにある*3と思った午後.

-- Good-bye.

*1:初日の朝に、既に座り込んで段ボール箱2個分に相当する量の本の山を整理していた人を見かけたので、そのように察し、了解したといういきさつ

*2:ウクライナで生まれた友人の おばあ様 によれば、USSR [ソ連] の国民は当時、「母国が全て・他国は滅びるもの」だと思っていたらしい: ここで、日本に今日生きている自分たちが、これを おかしい と思うのも、Ricœur が言うところの distanciation によるものであるようにみえる: しかし、大事なのは「じゃあ、今の日本は?」と反省すること (reflexion)、これです

*3:second-order preference っぽい響き: https://en.wikipedia.org/wiki/Higher-order_volition