ポン酢形式

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花と時刻表の追憶

午後に弾くピアノから食事までの猶予感覚による索引

僕が泣いたのは3月30日だった。

その2日前には中学校からの親友とじつに3年を越して顔をあわせており、数年を経てもお互いの個性  そして友情  とは、深いところではずっと不変のものとしてありつづけることを確かめあう大切な機会があった。流れゆく季節に落ちつく雨の冷たくしたたる、そのとき自分が耕させてもらっていた日本庭園で過ごした午後のことである。

 * 

4月初旬に長野県の伊那市・高遠へと桜見に出かけたのは、そのような十代末の窮境においてであった。

南信州伊那谷の高遠に春はたけなわであった    「桜は何の象徴か」

中井久夫さんが高遠を訪れたのは35年ほど前のこと。飯田線から過ぎ行く景色に、瓦屋根と自然とがピアノの鍵盤のように交互するのを見ながら思い返す。昔の車内にあったはずの同僚感 comradeship は今よりも近しいものだったかもしれないし、伊那市駅前の商店街にはもっとひと気があっただろう。

 

そのひとの足跡を踏み辿ることで、精神的な師匠との自分の関係について、以前から何か変わったことはあるか ?

時に、私たちは患者の書いた日記などを読む。患者がみて育った風景をみにゆく。さらに、時には、患者の死への道行きの跡を辿る。患者の読んだ本を、あるいは郷土史を読む。それがすぐに何になるわけでもないが、そんなことをする。

 

  中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」『日時計の影』p. 277

さし向かいで交わす生きた言葉に比べれば、たしかに「それがすぐに何になるわけでもない」かもしれない。

しかし、それはプルーストが英美学者ジョン・ラスキン John Ruskin の死後、かれの目を通してヴェネチアの中世建築を見て廻った一人旅にも似通う。中井さん自身についても、神谷美恵子須賀敦子や村瀬嘉代子さんへの伝記的紹介を書くときにはかならず、それぞれの故郷に吹き抜ける風の香りの記述、足や手をはじめとして身体を動かしていた形跡が文章に見出される。

散文の訳でも、文体の決定が努力の半分であり、しばしば時間の半分を要する。詩の場合はなおさらである。さまざまの補助的工夫もする。私はしばしば、自分の書斎を詩人の書斎に見立てて一時的に改造した。地図や写真も収集した。暗誦の他にテープを聴くこともあり、筆記することもあった。たかが筆記と思われるかもしれないが、筆記は、詩人が苦心したところを炙りだしてくれるよい方法である。実際、何度も筆記しなおしていると、それがわかってくる。[...]

それは、対面ではたくさん逢うことはできなかった人々とのつながりへの、精神的な血縁への突破口を探るこころみであると僕は思う。かつてかれも見たはずの情景、歩んだはずの土地を、自分の目で、自分の足で確めるという身体の工夫、その人の存在感を復元するための様ざまな努力をすることで、初めて実感が湧いてくる精神的なつながりというものがあると思う。

こういう方法は、精神科医として私が日常使う方法とあまり違うものではない。私はカルテを読んで頭にはいりにくければ、朗読し、筆写し、ワープロに打つ。その間で何かが私の腑に落ちてくる。明敏な頭脳の人にはさぞ迂遠愚鈍な作業と思われるであろう。しかし、私にはそうしないとわからない何かがある。「刑事は現場を百遍踏むそうだ」と私は自ら慰める。

 

  中井久夫「訳詩の生理学」『アリアドネからの糸』pp. 252-3

僕が飯田線で追いかけていたのは、かれの存在感 présence であり、また花と時刻表の記憶であった。

じじつ目をつむればまるでありありと見つめられるようだ、深緑の座席シートに薄藤色の映える、咲き盛りの鉢植えを一人旅の共とする初老の詩人、花の索引を搬ぶやわらかな風に、よろこばしい記憶の刻印と徴候をみとめる中井久夫の姿が  

 * 

帰りの電車が待合いに停まる。僕はその湖畔駅の端から、ひとり夜空を見上げていた。

Among yet higher things there exists a sort of unity even at a distance, as with the stars. Thus the upper reaches of the scale of being can effect fellow-feeling even when the members are far apart.

 

さらにもっと高等なものにおいては、たとえば星におけるがごとく、離れているものの間にも一種の統一が存在する。かようにより高いものへ昇って行こうとする努力は、離ればなれのものの間にも共感的なつながりをもたらしうるのである。

 

Marcus Aurelius, Meditations, 9.9.2 (tr. Martin Hammond, 神谷美恵子)

死滅した星の光が永いあいだ届きつづけるように、今もなお、自分には中井久夫の目や言葉の風合いが息づいている。

Mort, il continue à nous éclairer, comme ces étoiles éteintes dont la lumière nous arrive encore, et on peut dire de lui ce qu’il disait à la mort de Turner : « C’est par ces yeux, fermés à jamais au fond du tombeau, que des générations qui ne sont pas encore nées verront la nature. »

 

Marcel Proust, Préface à La Bible d'Amiens de John Ruskin (1904) https://fr.wikisource.org/wiki/Page:Ruskin-La_Bible_d%E2%80%99Amiens.djvu/77

花と追憶の肖像

かつては列車に乗り合わせたら、どちらともなく声がかかり飴や蜜柑やおにぎりが行き交い、仕事話や故郷話が出た。そして出口で他人に戻って別れた。新幹線が走るころからなくなった習慣である。

 

車中の団欒が消滅したのはなぜだろう。新幹線や特急ではあっという間に着く。どうやら四時間以内なら人間同士黙ったままでおれるらしい。ローカル線ではどうだろうか。たいていはがら空きである。自然、離れて座る。「袖振りあうも他生の縁」というが、わざわざ振れあわせに行くものではない。あれは満員の各駅停車で長距離を行く旅でこその話であったのだ。今は五、六駅で人ががらりと入れ代わる。[...]

 

思い起こせば、四年前、高遠の桜を見ての帰り、豊橋まで飯田線の各駅停車に乗った。天竜川沿いの四時間である。発車してまもなく、おばあさんが話しかけてきた。孫の自慢をして五駅ほどで降りた。しかし、それから次々に人が話しかけてくる。中年の土地の人、四人組の名古屋のおばさん、ダム工事の技師、近く渡米する電力会社の青年  。「不思議」は「なるほど」に変わった。私は高遠の花の市で満開の藤の鉢植えを買って持っていた。通路に置いてあるその鉢が鍵であった。「いい藤だね、どこで買いなすった、いい買い物だ。時々酒をおやんなさい」で始まった地元の人、「まあきれい、ね、ちょっとあなた」と仲間のほうを向いて話すことから始めた名古屋の女性たち、等々。

 

結局、人間は人間に話しかけたくてうずうずしているのだ。過疎地ならなおさらであろう。しかし、うっかり話しかけるのは危ない。相手が悪い人間でないという感触と、不自然でないきっかけが必要なのである。花ざかりの藤の鉢は、その二つの条件を満たしてくれた。日本人が今も「花が好きな人間はまあいい人間だ」と思っているのがわかる。人恋しい独り旅は花の鉢をもってローカル線に乗るのがいいかもしれない。ひょっとすると時刻表でもよいのかも。ああいうものをためつすがめつしている独り旅の初老の男はあまり悪人にみえないだろう。

 

  中井久夫「花と時刻表」『記憶の肖像』pp. 78-9, 「神戸新聞」1991年