親密な手紙
子供の時、本を読んでいてある言葉を(ある文章を、そして時には本の全体を)、これは自分にあてて書かれている、と思い込むことがありました。十四歳の時、もっと小さい時からそう思っていた岩波文庫『ハックルベリイ フィンの冒険』からの数行を作文に書きました。国語の先生に、しかしこの作者はおまえのことを知るまい、といわれて、口に出さなくはなりましたが、その前後はすっかり暗記し、松山のアメリカ文化センターで原書を見つけると、英文でも同じようにしました。そして私は、その数行にならって生きることを夢想したものです。
大江健三郎「親密な手紙」所収『伝える言葉プラス』(2006)
大江健三郎さんが今月3日に亡くなったという知らせをみみ [= 姉] から聞きました。いま僕が心から実感しつつあるこの悲しみを、
僕には大江さんのエッセイに紹介されて識った本、そして人がたくさんあります。そのなかのひとり、パレスチナ-アメリカ国籍の Edward W. Said という、Noam Chomsky の友人でもあった批評家は、その晩年に白血病と闘うなか、生涯の幕を閉じるまでのあいだ、老いにまつわる
その白血病で死んだ敬愛する友人エドワード・W・サイードという文化論・比較文学の学者についてなら、御存知の方も多いでしょう。[…] 私は同年生まれということもあって長く親しい友人でしたが、とくにこの十数年、往復書簡をかわしたりシンポジウムをやったり、さらに個人的な付き合いを深めることができました。一九九一年、定期健診で白血病を発見されて以降もさらに盛んにおこなったパレスチナ人のための評論活動に私は感銘を受けてきました。[…]
9月に水中書店さんで英語の原書を買っていた、サイードによる On Late Style (晩年のスタイルについて) という本には、個人的な思い出があります。10月に上野へ北欧椅子の展覧会へ行った日 (その日をご一緒できたことを、今でもその日の午後に差していた夕陽とともにうれしく思い返します)、行き帰りの電車で『伝える言葉プラス』という本に収められているエッセイを読んだときのことです。そこには、On Late Style のハードカバー版に、大江さんが推薦文を寄せたことが書かれていました。
その深く広い文化・文学論、ピアノの演奏家だと自称することが不自然じゃなかった、その音楽論、また独自の知識人論、帝国主義文化への批判をつうじて私はかれから教えられました。とくにかれが晩年をかけた、優れた芸術家たちが老年で示す「後期のスタイル」研究は、私自身「後期の仕事」をすべき年齢にさしかかった小説家として身につまされるものでしたし、総体として完成こそしませんでしたがこの仕事についてかれの死後まとめられた本『晩年のスタイル』(岩波書店、On Late Style, [2006, Pantheon Books])には
推薦文 を書くことにもなりました。
大江健三郎「ひとりの子供が流す一滴の涙の代償として」所収『伝える言葉プラス』(2006)
しかし、それを読んでみようと家に帰って確かめてみると、9月に買っていたものは別の出版社からのペーパーバック版で、その背表紙に大江さんの推薦文は見あたらなかったのです! そこで、そのころ椿が咲き始めていた2月上旬の雪の日、六義園での面接の帰り道に、神保町の北沢書店という古洋書店にまで、ハードカバー版をもとめに行ったというわけでした。
ところで、この経緯をお話しするのを良い機会に、大江さんが最も気に入っていた書店であるという神田の北沢書店さんの店長さんに、今までに大江さんが来店されるのを見掛けられたことがおありかを訊いてみたのです。すると、大江さんが神田に通っていた20年ほどまえの当時には、今は絵本が売られている一階に洋新書を扱うお店があり、大江さんはそこに新書をもとめによく来ていたそうで、今の書店長さんは当時から二階の古書店を担当されていたため、直接お話しするということはなかったそうです。それでも、
大江さんはね、英語で書かれた William Blake などの新刊の研究書をお買い上げになっていましたよ、あと Joyce とかね、と親切に教えてくださいました。
《私の番組 [響きあう父と子] のなかに、大江健三郎さんが、長編小説を書き終えるシーンがあります。ノーベル賞をもらった後、大江さんが、自分は最後の小説を書き終えたとも語った、あの作品です。かれは原稿の末尾に "Rejoice" と記してペンを置きます。そのときスペルを間違えて、Rejoyce と書きました。やはり昂奮していた大江さんは、喜びと大作家の名を頭のなかで結びつけてしまった様子です。 この会場へ私が来ることを知った大江さんは、こういいました。「アメリカの知識人たちに、こうつたえてほしい。私は Rejoice の正確な綴りも知っている。」 この式が終った後、私は日本の大江さんとかれの息子光に電話をするつもりです。そして、こういおうと思っています。"Rejoice, my friends!"》
この話にはさらに続きがあります。というのも、帰り道の電車で On Late Style を読んでいると、サイードによって明らかに表現された文体で綴られる批評のなかに、中井久夫さんが日本語に訳された、現代ギリシャの C. P. Cavafis という詩人による詩の、英語訳が引用されているのを見出したのです。それも、去年9月の姉の結婚式を終えたあとに書いていた、自分にとって思い出深い文章に引用していた詩のことが紹介されていたので、喜びはとくに鋭いものでした。
In Cavafy, then, the future does not occur, or if it does, it has in a sense already happened. [...] One of the most dense poems, "Ithaka," is spoken as if to an Odysseus whose journey home to Penelope is already charted and known in advance, so the full weight of the Odyssey bears on every line. This, however, does not preclude enjoyment:
May there be many a summer morning when, with what pleasure, what joy you come into harbors seen for the first time; […]
Edward W. Said, On Late Style (2006), ch. Seven: Glimpses of Late Style
カヴァフィス詩とのつながりは、しかし、それだけではなかったのです、なぜなら Edmund Keeley と Philip Sherrard による英語訳を買った日というのは、冬が明けた深大寺の植物屋さんを訪ねているあいだ、あの枝垂れ桜で知られる、江戸時代から300年以上の伝統を受け継ぐ六義園での春季臨時職への採用通知を受けた、僕に春が本当に訪れた日だったから・・
僕は、Edward Said がその意思の力によって長期的な望みを持ちこたえたように、自分の生涯の精神的父親である大江健三郎の逝去にあたり、僕自身の望みを悲哀に失うことに逆らいたいと思います。この意思の持続によってこそ、僕が大江さんに伝えうる最大の敬意を表現することができると信じるからです。
かれのエッセイ集から学びとったことで、僕がどれほど
そのためにも、まずは、この春に生まれるみみちゃんの子とともにしっかりと直立して生きることを、かれから授かった教えの後継と恩返しの始めとしたいと思います。
そして、咲けば散り、灰と煙に還るという規則にしたがって進む、自然の中の一環としての自分という人間を建設することを志すのです。
最後に、僕が「生きることの喜びを二倍に、悲しみを半分にする」友人たち (Cicero) を選ぶための指標とする、Edward Said によって紹介されたカヴァフィス詩の、中井久夫さんによる -- 骨までが青く染まるような夏のギリシャの空と海が再現された -- 翻訳からの抜粋をお贈りして、大江健三郎に奉げる一通の親密な手紙の結びとします。
イタカに向けて船出するなら 祈れ、長い旅でありますように、 冒険がうんとありますように、 新しいことにたくさん出会いますように [...]
初めての港に着く喜びの夏の朝に 何度も何度も恵まれますように、と。
— カヴァフィス「イタカ」(訳: 中井久夫)
読んでくれてありがとう。
そうなのだ、自分はずっと様ざまな、しかしつねに親密な手紙を受け止めていたのだ、と私は思ったものです。見知らぬ人の書いた文章でいながら、自分に向けられていると深く感じた、それが理由だ、と。そして本がそのようなものとなるのは、想像力が働くからだ。自分も想像力を頼りに、見知らぬ人たちへ親密な手紙を書こう。それが、いまに続いている思いです。
大江健三郎「親密な手紙」所収『伝える言葉プラス』(2006)