京都: 暮らし・文法・記号
実家暮らしとは非文法的です。入室にあたり扉はノックされません。
友達との二人暮らしにおける文法は, しかし, より保守的 (conservative) です。
— でも星先生は「日常のやりとりでは文法的であることのほうが少ない」ってつぶやかれてたじゃない、
じゃあ、日々の文法的な環境下において「非文」が許されるのは いつ だろうね ?
— まあ、たとえば「こいつ9時半からセミナーあるっつってたのにまだ寝てる」ってときには叩き起こすべきだとは思う
婚姻という institution にも文法という制約があるように、たとえば Twitter の字数制限にも concision という名前がある (3:17:34-):
Human nature を仮定した anarchism が法の欠如を意味しないのと同じで、
文は長ったらしく書けばいいってわけじゃないし、
Until I was twenty-one, I wished to write more or less in the style of John Stuart Mill. I liked the structure of his sentences and his manner of developing a subject. I had, however, already a different ideal, derived, I suppose, from mathematics. I wished to say everything in the smallest number of words in which it could be said clearly. [...]
There are some simple maxims -- not perhaps quite so simple as those which my brother in-law Logan Pearsall Smith offered me -- which I think might be commanded to writers of expository prose. First: never use a long word if a short word will do.
Bertrand Russell, How I write (1951)
http://www.pereestupinya.com/pdf/Russell,_Bertrand-How_I_Write.pdf
逆にある種の制約の設定は創造性を助けさえする、っていうのはまあ数学でも同じ (50:01-):
俳句をはじめとした詩でもそう:
ウクライナ語圏の友人が教えてくれたけどね、彼の おばあ様 によれば、USSR [ソ連] の国民は当時「母国が全て・他国は滅びるもの」だと思っていたそう: ここで、日本に今日生きている自分たちがこれを聞いて おかしい と思うのも「地理的/時間的な距離」があるから
このことについては Ricœur の現象学的解釈学 (herméneutique phénoménologique) で導入された考え方がわかりやすい:
- difference differentiate differentiation (差異 → 区別をつける → 微分)
と似た要領で、
- distance distanciate distanciation (距離 → 距離をとる → 距離確保)
という analogie proportionnelle により「距離をとること」という言葉を定める。
ある対象への密着・熱中は大事 -- でも、共同体 [community] の内側からは気づけないこともある。ところで、おそらく伝統的に distanciation とは epokhē の一種:
-- そういうわけで: 前回3年前に京都で会ったとき以来数学からは '距離をとった' 自分が気づく、個人的に魅かれる数学者・哲学者の共通点というのは、ある興味の対象を
ことができるという学術的な視野の広さ。
小林秀雄: 岡さんは数学を長年やっていらして、こういうふうにいけば安心という目途というものがありますか。
岡潔: 家康がもうこれで安心と思ったような、ああいう安心はありませんね。だからそういう心配もすべきものではないと思っているだけです。
小林: 一つ解決すると、その解決がさらに次の疑問を生む。
岡: 次の問題をよんで、それが無解決につながるということは幾らでもあります。ただ私が始めました頃は、三四十年かかっていろいろな中心的な問題がでてきていた。それを解決しなければ進めないという時期にあった。その頃始めたわけです。それがだんだん解決できていったということです。もう殆ど解決できています。今度は次の新しい問題がわかってこなければ行き詰まるわけで、そういう困難が待ちうけています。いまそこにいるわけです。
小林: しかし後戻りというのはないわけでしょう。
岡: 後戻りはしません。
小林: 絶対にしない?
岡: ええ。本当に行き詰まったら、数学というものがなくなるでしょうね。そういう危険性がないということは言えないわけです。だから数学のなかだけでは安心できないわけで、やはり人類の文化の一つとして数学というものがあるという自覚があれば、心配はないわけです。人類の向上に対して方向が合っていると思うようにやればいいので、そこまで行かなければ安心できない。数学至上主義というものはあり得ません。
まず哲学の分野でいえば、きむさんによる「方法論/観点としての構造主義」*1
数学では、たけのこくんの「'多重版' の特別な場合としての 特殊値」
IUTT 認識論
そして、Q.rad-heart の semiotics [記号学] によれば
-- だから、彼によればプログラミングもたとえば広義の数学。
3年前のとき一緒に四条から歩いて帰ってきたときには数学基礎論まで迷い込んでいたというありさま、しかし彼のいう記号操作にまつわる一連の話は他の人と共有したことがほぼないそうです。-- 構造言語学側の傍から観ていると、たとえば MIT で情報理論から借りてたころの Jakobson だとか、近隣の cybernetics とか読んでみたらおもしろいんじゃないかと思うわけ (hierarchy of reducibility 的な 不等式による評価 には一切興味ないけどね !)
もう17時40分、行かなきゃ !
帰ってしまうのは寂しい、でもとにかく君が元気そうでよかった。
— こちらこそ: 会えるまで心配してたよ、詩とはうつ病だからね。
また夏の講義ですぐ京都来るかもしれないし。
じゃあね !
Damage to Broca's area (the third frontal gyrus on the left side) produces a characteristic aphasia. Articulation becomes slurred and elliptic; connectives and word endings drop away. Damage to the Wernicke area, also in the left hemisphere but outside and to the rear of Broca's area, causes a totally different aphasia. Speech can remain very quick and grammatical, but it lacks content. The patient substitutes meaningless words and phrases for those he would normally articulate. Incorrect sounds slip into otherwise correct words. The fascinating corollary to the aphasia described by Carl Wernicke, some ten years after Broca, is its suggestive proximity to the generation of neologisms and metaphor. In many known cases the results of verbal or phonemic paraphasia (ungoverned substitution) are almost inspired. There is a sense in which a great poet or punster is a human being able to induce and select from a Wernicke aphasia.
— George Steiner, After Babel: Aspects of Language and Translation (1975), p.282